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20世紀の始まりの1901年にクラーク・ゲーブルは誕生した。最初の悲劇は、母の死。それはゲーブルが生後7カ月のときだった。後のゲーブルの"年上好き"は、亡き母の面影を求めたからだというのは納得がいくところ。
16歳の頃に高校を中退して工場に勤務するが、舞台に興味を持ち全米を旅して回る一座に加わった。そこで出会ったのが、最初の結婚相手となる14歳年上のベテラン女優ジョセフィン・ディロンだった。彼女の演技指導により徐々にゲーブルの俳優としての才能が磨かれていくことになる。
やがてハリウッドに進出したがエキストラ扱いに嫌気がさし、サイレント映画に見切りをつける。ディロンと別れて単身ニューヨークに移り、1926年からは舞台活動に専念する。「舞台で生きよう」と思い精進していたところ、皮肉なことに舞台で演じた『The
Last Mile』の非情な殺し屋役が認められて、再びハリウッドに復帰することになる。
1931年に10本以上もの映画にゲーブルは出演しているが、最初は凶悪犯人や暗黒街のギャングなどちんぴら系の役が多く振られる。当時のハリウッドでは珍しかった強面で男性的な魅力あふれるキャラクターに注目が集まり、『Sporting
Blood』(1931)で初の主役を演じるというスピード出世。早くもMGMの看板スターの仲間入りを果たす。同年に17歳年上の社交界の花形リア・ランハムと再婚をしている。
数多くの女優たちと次々に共演を果たし、人気が出るのに伴なって反抗的になるゲーブルに業を煮やしたMGMが、おしおきのために格下のコロンビア映画の『或る夜の出来事』(1934)に貸し出し出演をさせた。
ところが、これまた大ヒットを記録。アカデミー主演男優賞を受賞しただけでなく、ゲーブルが映画の中で演じた“肌着を着けずにシャツを着る”というファッションが巷の大流行に。アメリカ中で下着が売れなくなるという事態を引き起こす。
脂の乗った演技を披露し、MGM最大のヒットとなった『戦艦バウンティ号の叛乱』(1935)をはじめ、1938年には『桑港(サンフランシスコ)』、『サラトガ』、『テスト・パイロット』などのヒット作に立て続けに出演。極めつけは、今もなお大作の名を欲しいままにする『風と共に去りぬ』(1939)のレット・バトラー役。ハリウッド・キング(ハリウッドの王様)と呼ばれ強大な発言力を持った大スター、ゲーブルの地位はこうして確立される。
一方、私生活では、1939年に年下のキャロル・ロンバートと3度目の結婚。ハリウッドきってのおしどり夫婦だったが、ロンバートは国債キャンペーンの飛行中に事故に遭い1942年に帰らぬ人となってしまう。あまりのショックで、ゲーブルは引退を表明し空軍に入隊。将校としてヨーロッパ戦線へ向い、爆撃機B29の射撃手としてドイツ空襲などに参加した。ドイツにおいては「ゲーブルを撃ち落とした者には、5,000ドルと、昇格・休暇を与える」と、ゲーブルの首には賞金が賭けられたという。戦後は、ハリウッドに復帰し男の魅力溢れる役を演じ続けるが、戦前ほどの人気を獲得することはできなかった。
1949年にはロンバードに似たシルヴィア・アシュリー侯爵夫人と4度目の結婚をするが、2年後に離婚。1955年にはやはりロンバートに瓜二つだった元女優のケイ・ウィリアムズと5度目の結婚を果たし私生活はようやく落ち着く。
そして、モンローと共に遺作となる、アーサー・ミラー原作の『荒馬と女』(1961)に出演する。最初で最後のマリリン・モンローと共演だったが、ファザー・コンプレックスのモンローにとってゲーブルはまさにあこがれの存在。気合が入ったモンローは、緊張のあまり演技も精神も不安定で遅刻やすっぽかしなどの連続だったという。そのせいかどうかは定かではないが、撮影終了直後に心臓発作でゲーブルはあっけなく死んでしまう。
ゲーブルのお墓は、最愛の女性ロンバートの隣にある。2人の悲恋は、『面影』(1973)のタイトルで映画化された。
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